2009年10月31日土曜日

空気人形

シネマライズ
http://www.kuuki-ningyo.com/index.html

「ダッチワイフ」という存在は 知っているにせよ、使ったこともなければ、実物も見たこともない。男性の性対象の代替品(品、と使うのはおかしいのかもしれない)として存在している“モ ノ”が「ダッチワイフ」だ。性対象の代替となるのであれば、お金さえ払えば“モノ”ではなく“人”でも可能ではある。しかしそこを後者ではなく、あえて前 者を選ぶというところに使用者の理由が介在する。その理由は様々ではあろうが、少なからずとも人とモノの間にある一方的なコミュニケーションは、相手を思 う愛のようなものがあるように思える。むろん、これはとてもイノセンスな理由である。反応の有無を問わず、愛するのだから。



「空気人形」が名作なのか迷作な のかはよくわからない。というのも先述した通り「ダッチワイフ」が男性にとってのものであるため、この映画を見る際に性差が左右する内容であるからだ。と いうわけで自分にとって客観的に考えたところで結構なフィルターにかかった上での鑑賞でしかないわけで、以下書けそうな部分は箇条書きのような体で記して おく。


『空気人形がなぜ人の心を持ってしまったのか、というところが不十分。』

人の形をしているから“空気人 形”であることは分かっているのだが、モノから人(めいたもの)へ変化するのであれば、それなりにゼロから成長していかないことには納得ができない。日本 の映画だから日本語を話す“空気人形”。そのことに関しては“ワンダフルライフ”でのこの世とあの世の間の世界を描く際にも言えていたことで、この地域で のルールに則ったからこうなったようなある種、構造主義とも言えるものに依存しすぎているのではなかろうかと思える。それはちょっとズルい。


『描かれる地域が東京下町だけでなく、新宿のような山の手線の西部の繁華街に至ってしまったこと。』

“空気人形”はファンタジーであ る。現実世界の中でありそうな感じを描こうとするなら狭い地域、地区で話が展開していったほうが、粗は見えなかったはずである。そもそも空気人形のぞみの 持ち主秀雄が住む町は月島で昔ながらの下町情緒溢れる地区と川を挟んで高層マンションが建つという東京のミックスされたロケーションの描写は映画開始30 分くらいは丁寧に描かれていたと思うし是枝映画らしく美しく描かれていた。しかし後半に近づくにつれ、荒さが目立ちはじめる。月島のしがないレンタルビデ オ店で働く純一が東京タワーを窓からどかっとナメで見えるような港区あたりの部屋に住めるのか。オダギリジョー演ずる人形職人が新宿に住む必要はあったの か。その必要性以上に空気人形が新宿へ行くためのリスクのほうが大きかったように思える。月島から新宿に行くためには電車に乗らねばならないのだ。そんな に広域で話を展開するほどの要素はあったのか。


『登場人物の数はよかったのか。』

今作の本筋自体は空気人形とその 周辺の人々のお話である。「空気人形はからっぽで、現代を生きる人々も同じようなことが言える」という構造を月島周辺に住む人に投影する必要があったの か。空気人形を介して偏屈しているかもしれないが純粋である愛のベクトルを描こうとしている話の中で、本筋と関係のない人々を入れ込むことは水を差してい るように思えて仕方ない。ロケーションに関してと多少カブるのだが、もう少し絞った登場人物でも物語は成立するはずだ。


『「空気人形」が「自分を愛してくれているかどうか」を確かめる相手を間違えている?』

これは最大のミスとも言えるよう に私は思う。ネタバレになるのかもしれないが、後半上記のような場面がある。“私は「心」を持ってしまいました。持ってはいけない「心」を持って”しまっ たから、空気人形は人間に近い描写をされている。しかし、空気人形が愛を確かめる相手は思いを寄せる相手ではない。人が人を好きになるのであれば、好きな 相手からどう思われているかが大事なわけで、そこを間違えて描かれているような印象を受ける。これが監督の意図的なものであれば、空気人形の心は準人間程 度の心であったということになるのであろう。ともあれ私は映画館で見た際には「え?」となってしまった。


書くと文句ばかりになってしまっ ているようであるが、物語の内容自体は面白かった。しかし大きな欠落があるとすれば、たくさんの要素を入れ込むわりには雑に描きすぎなんではなかろうかと 思うのが「空気人形」を見て思うことではあるし、「ワンダフルライフ」からさほど変わっていない、そのざっくり感そのままに監督業から離れてしまうのは残 念である。

2009年10月13日火曜日

わが星

三鷹市芸術文化センター
http://www.seinendan.org/jpn/infolinks/infolinks090809.html

最近Twitterを始めたおかげで生の情報を得られる機会が多くなっている気がしている。4、5年前のmixiのようで、参加者が善意で情報を提供してくれている。大変ありがたいTwitterではあるが、mixiの今の状況を考えるとゆくゆくは・・・と思うと、なんとかこのままの感じで運営していってほしいものである。

と、そのTwitterで大評判だったため急遽最終日キャンセル待ちダメもとで三鷹に見に行った青年団リンクままごとの「わが星」。Twitterでの「よかった」とか「泣いた」とか本当に言葉としては稚拙と思えるようなレヴュー(Twitterが140文字のショートブログだとしてももう少し言葉は選べるはずだとは思った)ではあったが、不思議なことにレヴューすべてが肯定的であるのだった。

この「わが星」を観た多くの人が簡略化された言葉を選んでつぶやいていたのは、内容が誰もが知っているし分かっていることを主題にもってきたからだと考えら れる。人は産まれたら死もあるし、そういうような状態は何に対しても同じようにある、という無意識下に存在しているであろう当たり前のことを団地での人間 模様と太陽系の星たちとをリンクさせて落とし込んだのが「わが星」であるように思う。

私自身、この舞台は本当に面白かったし、実際に泣いてしまった。にも関わらず泣いたはいいが、どこで泣けたのかがよく分からない。特別な事も言っていない し、内容だってパンフレットの裏側に書かれてあるものに忠実だった(今思えばこれは完全にネタバレともいえる)。しかし、よく考えてみれば普通のことだっ たから泣けてきてしまったのではないだろうか。痒いところに手が届くが如く。

普段みんなは知っているし分かっているようなことは口には出さない。そのような類いの事柄をわざわざ言ったことところで何も変わらないし、実際になってみな いと分からないようなこと(“死”はこの類いにあたる)を「わが星」では家族の一日や一年を地球の自転や公転とあわせて描いていく。前者と後者は共に時間 という概念下で同じ時間の量であることに違いないのだが、その時間の解釈としては人と星では大きく異なる。人にとっての一日と星にとっての一日は“寿命” おいての割合は違いすぎる。その尺度の違う二項を比較しているのもナンセンスであることは分かっているのに、この舞台では何事もないように描かれる。理不 尽ではないが理不尽なようにも思えてしまうような“死”に対しての人の思いを無視して、星も人も消滅へと向かっていく舞台上での時間軸に乗せ、かなりざっ くりとしたフラクタル構造のようなものを持って物語は展開していく。

私が泣けてしまったのは、やはり自分は人で、“死”という当たり前にあることに理不尽だと思ってしまう心情が働きかけてしまっていたからで、自分は心がある (“死”は終わりということをなんとなく認識している)人間であるという事実と絶対に消滅はやってくるという実体験のない受け入れがたい、どうしようもな い隔たりからきていたのではないか。その二項間の関係はそっくり団地に住む家族の時間と星が動くことのでの時間とを描く「わが星」のシチュエーションにリ ンクしていく。この感じは普段一話完結で成立しているアニメの劇場版に近い。

一話完結のマンガやアニメというのは、永遠に続く日常を描いており主人公が成長することがない。設定としては主人公が成長してしまっては、その世界の中での バランスを崩してしまう。例えて言うなら金曜7時からテレ朝で見た時とそのアニメの劇場版の普段と違う、あの感じ。劇場版で描かれる深刻な描写は主人公を 何かしらの心情変化を起こさせ(それは成長に近い)、観る側も普段とは違う心の揺さぶりを体験する。しかし、その成長は劇場でだけの話であって、また金曜 になれば、普段どおりの永遠の日常が描かれる。キャラクターのビジュアルは同じであれど、中身は全くの別人なのだ。

「わが星」はアニメの劇場版に近いとは言ったが、舞台でありアニメ放送のようにまた来週の同じ時間に永遠に続く日常を描くわけではない。何度かの公演を以てし て、終焉する。それは青年団リンクままごとのつくってきた「わが星」の世界が終わるということで、表面にでかかっていた、誰もが知っているし分かっている ことを再び奥の方にしまい込んでしまっているようでもある。

なぜ泣けたのかなんて、どうでもいいことではあるとは思うのだが、たった80分の短い時間の中で永遠に続く日常を終わらせないようで終わらせた、終わらせたようで終わらせない、ままごとの舞台は一言「よかった」とつぶやくだけで十分にも思える。

な お、パンフレットの裏には「あー、地球に生まれてよかった」と大きな文字で書かれているが、この舞台は日本語圏であるから成立するような言葉の響きのニュ アンスが多くあったように感じられた。地球の部分は日本であってもよかったのかもしれない。もちろん観る側からも同じように思えたことも 確かではあるのだけれど。「あー、日本に生まれてよかった」と。


2009年10月7日水曜日

光 松本陽子・野口里佳

新国立美術館
http://www.nact.jp/exhibition_special/2009/03/hikari.html

「光」と言われると、なんとなくHIROMIXかしらとか思ってしまうのは自分の光の表現の原体験が90年代に置いてきぼりになっているのかもしれないが、その「光」のイメージ自体は柔らかな感じであることは変わっていないように思う。

今展示“光 松本陽子・野口里佳”は言わずもがな光をテーマにした展覧会である。光と言えど絵画の空気遠近法によって描かれた、見えたものを見えたように、というようなものではなく、松本・野口の「光、のようなもの」を感じたらこうなった、というような印象だ。

展覧会のスペースがきちんと二つに分かれていたため、見た順序どおりに、となると野口のほうが先だったので、野口についてから先に書く。

野口の作品は初期の頃に比べ、撮 影技法というところもあるが抽象性が増してきている。写真としてのイメージはあるのであろうが、イメージが不確かというべきか、もやもやっとしている。空 気、のようなもの、はたまた光、のようなものを捉えようとしているような。そもそもカメラは光学であるから、光を捉えるというのは、カメラとしては結構 まっとうな仕事をしているとも思える部分ではあるけれど、カメラの展示ではなく写真の展示、成果物を提示するということを考えるとかなり難解になってきて いるように感じられる。写真というのはイメージあってこそ、と考えるのはもはや古い考えかも知れないが、ティルマンスのオブジェとしての「写真」や杉本博 司の暗室での作業による「写真」の提示などからすれば、目に見える何か、ではなく、目に見えない何か、を写すために写真表現が移行しているのかもしれな い。そのような作家性の流れは、光学というベースによって成立する。やはり抽象性が高かろうが、写真家は写真家であるものなのだ。

野口里佳の展示スペースと対称的 に配置された松本陽子の絵画。もし松本と野口の展示が同じ空間で展示されていたとしたら。間違いなく松本の絵画は野口の写真を喰っていただろう。それくら い素晴らしかった。野口と松本の作品に優劣をつけたところの、喰う、という意味ではない。こう描くと矛盾が生じてくるような気もするが、松本の絵画には 「喰われるんじゃないか」というくらいの空間への開放感ともいうべきような広がりがある。タイトルは様々ではあるが、殊にピンクの絵画と呼ばれる作品群は ピンク色の雲のようなものがこちらに向かってくるような。はたまたふわふわのタオルに自分自身から飛び込む、まさにその直前のイメージのような。平面であ るにも関わらず、包み込むような(もしくは包み込まれるような)、またはこちらへと向かってくるような(もしくは自分が向かっていっているんじゃないかと 思うような)、松本の絵画は柔らかく気持ちがいい。ピンクの絵画の作品群はサイズとしては一辺が2m近くあり平均的な人よりも大きいのも、そう感じさせる 一因なのかもしれない。

今展示のカタログは中島デザインによるもの。中島デザインといえばcutな どロッキンオンの紙媒体を手がけている(もともと中島氏がロッキンオンにいたから当たり前だけれど)。また4,5年前に近代美術館での「連続と侵犯」のカ タログが中島デザインであった。一言で中島デザインの出版物を言うならば「かっこいい」。さすが商業ベースの仕事とでも言うべきか、完成度が高い。カタロ グであるにも関わらず、アートブックに近いとも言える出来。しかし、今回の松本の作品を見てしまってはどれだけよいカタログだとしても、やはり実物のほう がよいと言わざるを得ない、とコマーシャルフォトグラファーの瀧本幹也の写真のことを何となく思い浮かべた。