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2009年10月7日水曜日

光 松本陽子・野口里佳

新国立美術館
http://www.nact.jp/exhibition_special/2009/03/hikari.html

「光」と言われると、なんとなくHIROMIXかしらとか思ってしまうのは自分の光の表現の原体験が90年代に置いてきぼりになっているのかもしれないが、その「光」のイメージ自体は柔らかな感じであることは変わっていないように思う。

今展示“光 松本陽子・野口里佳”は言わずもがな光をテーマにした展覧会である。光と言えど絵画の空気遠近法によって描かれた、見えたものを見えたように、というようなものではなく、松本・野口の「光、のようなもの」を感じたらこうなった、というような印象だ。

展覧会のスペースがきちんと二つに分かれていたため、見た順序どおりに、となると野口のほうが先だったので、野口についてから先に書く。

野口の作品は初期の頃に比べ、撮 影技法というところもあるが抽象性が増してきている。写真としてのイメージはあるのであろうが、イメージが不確かというべきか、もやもやっとしている。空 気、のようなもの、はたまた光、のようなものを捉えようとしているような。そもそもカメラは光学であるから、光を捉えるというのは、カメラとしては結構 まっとうな仕事をしているとも思える部分ではあるけれど、カメラの展示ではなく写真の展示、成果物を提示するということを考えるとかなり難解になってきて いるように感じられる。写真というのはイメージあってこそ、と考えるのはもはや古い考えかも知れないが、ティルマンスのオブジェとしての「写真」や杉本博 司の暗室での作業による「写真」の提示などからすれば、目に見える何か、ではなく、目に見えない何か、を写すために写真表現が移行しているのかもしれな い。そのような作家性の流れは、光学というベースによって成立する。やはり抽象性が高かろうが、写真家は写真家であるものなのだ。

野口里佳の展示スペースと対称的 に配置された松本陽子の絵画。もし松本と野口の展示が同じ空間で展示されていたとしたら。間違いなく松本の絵画は野口の写真を喰っていただろう。それくら い素晴らしかった。野口と松本の作品に優劣をつけたところの、喰う、という意味ではない。こう描くと矛盾が生じてくるような気もするが、松本の絵画には 「喰われるんじゃないか」というくらいの空間への開放感ともいうべきような広がりがある。タイトルは様々ではあるが、殊にピンクの絵画と呼ばれる作品群は ピンク色の雲のようなものがこちらに向かってくるような。はたまたふわふわのタオルに自分自身から飛び込む、まさにその直前のイメージのような。平面であ るにも関わらず、包み込むような(もしくは包み込まれるような)、またはこちらへと向かってくるような(もしくは自分が向かっていっているんじゃないかと 思うような)、松本の絵画は柔らかく気持ちがいい。ピンクの絵画の作品群はサイズとしては一辺が2m近くあり平均的な人よりも大きいのも、そう感じさせる 一因なのかもしれない。

今展示のカタログは中島デザインによるもの。中島デザインといえばcutな どロッキンオンの紙媒体を手がけている(もともと中島氏がロッキンオンにいたから当たり前だけれど)。また4,5年前に近代美術館での「連続と侵犯」のカ タログが中島デザインであった。一言で中島デザインの出版物を言うならば「かっこいい」。さすが商業ベースの仕事とでも言うべきか、完成度が高い。カタロ グであるにも関わらず、アートブックに近いとも言える出来。しかし、今回の松本の作品を見てしまってはどれだけよいカタログだとしても、やはり実物のほう がよいと言わざるを得ない、とコマーシャルフォトグラファーの瀧本幹也の写真のことを何となく思い浮かべた。

2009年6月8日月曜日

野村仁 変化する相―時・場・身体

新国立美術館
http://www.nact.jp/exhibition_special/2009/03/nomura.html

中原は美術オタクだったそうで高校時代には野村仁の存在を知っていたそうだ。京都市立芸大に入学した中原は野村を師と仰ぐー。中原のルーツを知るべく、野村仁の展示を見に行った。
以前(2001年、気がつけば8年もの時がたっていた)豊田市美術館での展示を見ていたが、その時はまだ私自身アカデミックな美術教育は受けておらず、ただ『美術館へ行く』という目的を持って見に行っていたはずで、見たところでなんだかなんて分かる訳もなく、『つまらなかった』という印象ばかり残っていた。しかし、今回の展示を見て、その8年前の『つまらなかった』は撤回せざるを得ない。『面白かった』のだ。

野村は見えないものを見えるようにするためのはどうすればよいか、という方法論に近いようなところを作品化しているように思える。卒業制作での巨大段ボールは重力と時間を、その後につくられたドライアイスを用いた作品は時間を追いかけるために写真を効果的に使い、写真を使っていくやり方はその後の「'moon' score」へと繋がり、そして宇宙へー。今展示では野村の仕事の繋がりがテキストと共に丁寧に並べられており、野村が「何を考えているのか』、ということが分かりやすく示されており、もともとは野村個人で制作されてた作品は、状況に応じてプロジェクト化されていくのも納得できる。
宇宙の形なんて、誰も知らない。地球の自転なんて、以前は信じられていなかった。野村はそういった大きすぎるものに対しての理解を『作品』を介して私たちに見せてくれる。見えないものを見えるようにする、という美術家として全うする野村の仕事を『つまらなかった』のまま放置していたことを恥じるばかり。回顧展が近い時期に(とはいえ8年ではあるが)あったことは幸運であったと思う。
そもそもは中原のルーツを、と思い行ってみた展示だったが、野村の「鶴」あっての、中原の「ツバメ」だった。

余談ではあるが新国際美術館には一昨年の五美大の卒業制作展示に訪れて以来であったが、日曜であるにも関わらず人の少なさに驚いた。新国立美術館はポスト東京都立美術館的存在になりうるのだろうか。しかし公募団体に跋扈されているようでは、未来は決して明るくない。