http://www.nact.jp/exhibition_special/2009/03/hikari.html
「光」と言われると、なんとなくHIROMIXかしらとか思ってしまうのは自分の光の表現の原体験が90年代に置いてきぼりになっているのかもしれないが、その「光」のイメージ自体は柔らかな感じであることは変わっていないように思う。
今展示“光 松本陽子・野口里佳”は言わずもがな光をテーマにした展覧会である。光と言えど絵画の空気遠近法によって描かれた、見えたものを見えたように、というようなものではなく、松本・野口の「光、のようなもの」を感じたらこうなった、というような印象だ。
展覧会のスペースがきちんと二つに分かれていたため、見た順序どおりに、となると野口のほうが先だったので、野口についてから先に書く。
野口の作品は初期の頃に比べ、撮 影技法というところもあるが抽象性が増してきている。写真としてのイメージはあるのであろうが、イメージが不確かというべきか、もやもやっとしている。空 気、のようなもの、はたまた光、のようなものを捉えようとしているような。そもそもカメラは光学であるから、光を捉えるというのは、カメラとしては結構 まっとうな仕事をしているとも思える部分ではあるけれど、カメラの展示ではなく写真の展示、成果物を提示するということを考えるとかなり難解になってきて いるように感じられる。写真というのはイメージあってこそ、と考えるのはもはや古い考えかも知れないが、ティルマンスのオブジェとしての「写真」や杉本博 司の暗室での作業による「写真」の提示などからすれば、目に見える何か、ではなく、目に見えない何か、を写すために写真表現が移行しているのかもしれな い。そのような作家性の流れは、光学というベースによって成立する。やはり抽象性が高かろうが、写真家は写真家であるものなのだ。
野口里佳の展示スペースと対称的 に配置された松本陽子の絵画。もし松本と野口の展示が同じ空間で展示されていたとしたら。間違いなく松本の絵画は野口の写真を喰っていただろう。それくら い素晴らしかった。野口と松本の作品に優劣をつけたところの、喰う、という意味ではない。こう描くと矛盾が生じてくるような気もするが、松本の絵画には 「喰われるんじゃないか」というくらいの空間への開放感ともいうべきような広がりがある。タイトルは様々ではあるが、殊にピンクの絵画と呼ばれる作品群は ピンク色の雲のようなものがこちらに向かってくるような。はたまたふわふわのタオルに自分自身から飛び込む、まさにその直前のイメージのような。平面であ るにも関わらず、包み込むような(もしくは包み込まれるような)、またはこちらへと向かってくるような(もしくは自分が向かっていっているんじゃないかと 思うような)、松本の絵画は柔らかく気持ちがいい。ピンクの絵画の作品群はサイズとしては一辺が2m近くあり平均的な人よりも大きいのも、そう感じさせる 一因なのかもしれない。
今展示のカタログは中島デザインによるもの。中島デザインといえばcutな どロッキンオンの紙媒体を手がけている(もともと中島氏がロッキンオンにいたから当たり前だけれど)。また4,5年前に近代美術館での「連続と侵犯」のカ タログが中島デザインであった。一言で中島デザインの出版物を言うならば「かっこいい」。さすが商業ベースの仕事とでも言うべきか、完成度が高い。カタロ グであるにも関わらず、アートブックに近いとも言える出来。しかし、今回の松本の作品を見てしまってはどれだけよいカタログだとしても、やはり実物のほう がよいと言わざるを得ない、とコマーシャルフォトグラファーの瀧本幹也の写真のことを何となく思い浮かべた。

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