NODA CONTEMPORARY
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ジュリアン・オピーとどう違うのか、考える。
極並というのかなり珍しい名字で覚えていたのか、べたっとした面が印象的だったから覚えているのかは分からないが、極並の絵画のイメージは脳裏に残る。一般的にイメージに伴う字面(タイトルというよりはむしろ制作者名)を覚えているというのは私だけではないはずで、イメージとそのイメージを自身の中で言葉で説明するタグのようなものがあるとしたら、極並という名前と彼の描く絵画はそれにあたるように思う。
実際に極並のイメージを思い出せる(思い出すではなく、思い出せる、と表現したい)理由を浅はかであると言われるのを承知で言うのであれば、ジュリアン・オピーに引っ張られるような印象を受けるからだ。その浅はかもしれないという可能性の責任をとるべく、自分なりに極並とオピーはどう違うのか考えたい。
オピーのイメージ体験が私にとって強烈なのは、10代の終わりにブラーのベストアルバムのジャケットで出会っているからなんではないかと推測される。音楽への造詣は深くはないにしろ、それなりに音楽を聴いていれば90年代グランジやらブリットポップやら聴いていたのは当然の流れだったのかもしれない。ブラーは言わずもがなブリットポップの中心でオアシスと双璧を成していたわけだが、個人的には見た目が男前で中流階級的のブラーの方が労働階級でひねくれたオアシスよりかっこ良かったという理由からブラー派だった(もちろんsong2などのキャッチーな曲を嗜好した上でのブラー派ですが)こともあり、ブラーのベストアルバムを買うのも自然な成り行きではあった。イギリスではスターであったブラーがベストアルバムのアートワークに選んだのがオピーで、メンバーのポートレートをかなり大胆に削り落としたイメージを作り上げた。だらだらっとオピーの出会いを書いてしまったが、最後に書いた大胆に削り落としたイメージ、というのいうのは結構なインパクトで、顔のニュアンスがすべて簡略化された世界的なミュージシャンは’blur'のビジュアルイメージとしてではなくオピーの作品として昇華(消化?)されていったようにも思われる。と同時にブラーのイメージ戦略の間口の広さとして考えうることもできる。
顔、というのはヒトを形成・イメージするためには重要なもので、子供が「パパの絵を描いて」という父親のリクエストにきちんと目、鼻、口を判別できるような状態で描くことができるほど、人間には顔へのイメージ、出力が無意識に備わっている(顔のパーツがそもそも簡略化しやすいとも言える)。一方で見る側も「奈良美智の絵みたいにさ~」と言われれば、同じようにその顔の感じをイメージできる。
極並の絵はそういったイメージできる顔がでてこない。顔と言ってよいか、顔に含めるべきかどうか、というような一般的に顔として認識している概念のキワに近いようなものを描いている。要は顔としてのパーツ部分を描かずして描いているのだ。極並はポートレートという位置づけで考え、描いているであろうと考えられはするが、直球のその人そのものを描かない構図なのだ。それは肩越しであり、その後ろには階段があり、ポストがあり、もしくは何もない。極並は人そのものを描く訳でなく、その人の背景だとか雰囲気だとかをべったりとしたマチエリで描く。極並はオピーの絵画の一枚一枚の間にある、個人個人の関係性を描いているかのようである。
人は自分自身で認識する主観的な自分のイメージと他者から見た自分を見た客観的なイメージの両方を以てして存在している。オピーと極並の描く絵画は他人のポートレートであるから、後者に相当する。しかし同じようなべったりとした表面性を用いて、同じように他人を対象として描いては描いている二人は同じようには他人が見えていないことは確かであるようだ。

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