2009年6月4日木曜日

「変成態−リアルな現代の物質性」METAMORPHOSIS - Objects today Vol.1 中原浩大

αM

中原浩大はよく分からない作家である、と私は思う。

フィギアを初めて作品化したのは村上隆ではなく、中原浩大であることは有名な話であるが、中原はフィギアだけでなくレゴやロボットの操縦席のようなものを制作するなど様々なメディア(というより”モノ”感が強いようにも思う)で作品を発表している。また、80年代「関西ニューウェイブ」と称されている作家の一人であったこともあってか、なかなか東京では見る機会が、ない。

今回αMに出品された「ビリジアンアダプター+コウダイノモルフォII」は1989年での松村画廊で発表されて以来、一度も展示されたことはないというのだから、初見である。空間に赤と黒が半分ずつ塗られた1mほどの球2つに毛糸で編まれた、幾何学的というのをもっと崩したような模様が床に敷かれる。αMのDMやwebで見る事の出来るイメージに近い。
と、やはりここで思うのが、『分からない』、ということなのだ。とはいえ、その”分からない”というのは突き放すような感覚の『分からない』のではなく、「なんだこれ」という好奇心に近い感覚での『分からない』である。

作品を見る上で、人は好き嫌いというフィルターを除いて鑑賞する事はできないであろうと私は考えている(実際に私もそうだ)。先日、友人が彫刻家の三沢厚彦の作品の印象は「ぐっしょり」で、実物を見てもやっぱり「ぐっしょり」しており、けれど足の付け根のフォルムには共感していて、触らないけど、触りたいくらいだ、というようなことをブログで書いていた(その友人は三沢厚彦の教え子である)。私はその友人の言う「ぐっしょり」感やその足の付け根の具合を共感できる、ということを『分からない』として分かっているような気がしている。『分からない』感を分かる、という感じ方もあるように思う。

「知らなかったものを発見したときみたい」—”ナディア”を制作したときに中原は言ってる(2008年12月号美術手帖の1992年3月号を再掲載したものによる)あたり、作品を制作すること自体が『分からない』を模索した結晶なんじゃないか、と思わせるように、鑑賞する側のひとりとしては『分からない』中原の作品を楽しみたい。

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