ラベル 東京都現代美術館 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 東京都現代美術館 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2009年6月23日火曜日

「MOTコレクション−MOTで見る夢/MOT.Field of Dreams」

東京都現代美術館

池田亮司と同時開催、というか常設展示であるから料金据え置き1000円。普段美術館に行かない人、企画展を見にきた人にとっては常設なんて、と思われる事もあるだろうし、見る事なく帰宅の途につく人も多かろう。しかしMOT(東京都現代美術館)のコレクション侮るなかれ、と言える内容になっている。

現代美術館と名前がつくだけに戦後を中心にコレクションしているわけだが、近年購入したであろう作品は国内の著名なコマーシャルギャラリーから直で買い付けしてきたような作品ばかりで驚かされる。一時は経営危機に陥り作品購入費が0円にあった事もあったそうだが(これはリーマンショック以前の話)、その後積極的に高騰する前の若手の作品を購入したことで他の美術館では見られないようなラインナップとなっている(実際前回東京都現代美術館に来た時、”パラレルワールド”だか”屋上庭園”だかの際にコレクション展のリニューアルを見たときには、本当に驚いた)。

前述したが主に戦後の美術を中心に展開しているコレクションとはいえ、中には20世紀初頭の作品もあるわけで100年近い時間の隔たりがある作品群の展示であるが、展示構成の違和感はないし、収集だけでなく展示に対する学芸員の力があってのコレクション展と言える。特筆すべき作品と言われるとなかなか難しいが、個人的に未見であったアレックス・カッツの作品が見る事が出来たのは収穫であった。2006年の大阪国立国際美術館での”エッセンシャル・ペインティング”に出展されていた作家(リュック・タイマンスやローラ・オーエンズなど)は”エッセンシャル〜”が見に行けずとも、別の場所(主に東京)で見る事ができていたので、アレックス・カッツが見れたのは幸運だった(しかも東京都現代美術館の常設で見れるとは!)。またステラの作品は川村記念美術館で見るとおっさんくさいというか、古くさく見えてしまうのに現代美術館ではそうは見えないのが不思議だ(これも学芸員の展示構成の力か)。

上野の森美術館では日本屈指の現代美術コレクター、精神科医・高橋龍太郎氏のコレクション展”ネオテニー・ジャパン”が開催されている。こちらはコレクターであるから高橋氏の自腹で作品を購入している。出品されている作品群は価格が高騰する前であろう頃に購入したと思われる。購入時はそれほど高くはなかったかもしれない。しかしどの作品も教科書で見れるくらいのものだったり、美術館に入ってもおかしくないような作品ばかりだ。結果としてそうなっていったのかもしれないが作品の収集、展示、と高橋氏は個人レベルでメセナ活動をしたといっても言い過ぎではない。
リニューアルされた東京都現代美術館の常設展示での作品収集は学芸員長谷川祐子の存在が大きいはずだ。近年の作品の収集も日本で一番の凄腕学芸員がいてこそ、だとは思う。とはいえ購入費用は現代美術館の学芸員が捻出しているわけではなく、都民の血税によって賄われている。若手の作品を買うという事は育成にも繋がることは確かだが、いかんせん東京都現代美術館は民間ではない。メセナ活動に近いと言えど、やはりお金の出所が根本的に違う。現代美術は難解だと言われて久しいが、コレクションしていく作品について都民にもっと理解を求めていく事は作品の保存と同じくらい東京都現代美術館の重要な役割と言える。

2009年6月22日月曜日

池田亮司 +/- [ the infinite between 0 and 1]

東京都現代美術館

6月21日は夏至で一年で一番昼が長い日である。とはいえ’昼’というのを個人のレベルで満喫するには、やはり日の出と日の入りがはっきりする晴れでないと’昼’自体の始まりや終わりがわからないわけで、今日の雨という天気からすると結局夏至を満喫できずに終わった一日であったのは疑う余地なしである。
とまぁ前置きはだらだら書いたが6月21日に終わる展示はどうやらいくつかあるということは知っていたのだが、じゃあどの展示を見に行くかとなるにしても雨という天気からすれば、どれも見に行くのめんどくさいとか思ってしまうのは悪い癖だとか思いつつも、そういえば池田亮司を見に行くつもりで見に行けてなかったことを思い出し、現代美術館に向かう事にする。
ここまでは完璧に日記な気がする。


池田亮司をミュージシャンというカテゴライズはなんだか違和感を感じる(wikiでは実験音楽のミュージシャン、となっている)。どういう立場で見るかはどうとも言い難いが、今展示は映像+サウンドのインスタレーションである。実際前評判というか見に行った知人から聞いた話では、見に行くべきかどうかはよくわからない、というような事を聞いたが、確かにシチュエーションによって大きく見え方が変わるような展示であったことは確か。
良かった点としては会場構成。1F・B1Fともに同じようにL字の空間をとり黒と白の対比をわかりやすくつくったこと。建物の構造上の問題で柱が邪魔にはなったがタイトル”+/ー”を再現するための空間作りは充分に感じられた。
悪かった点、というか私が最終日に行ってしまったことが大きくあるとは考えられるが、白い部屋、B1Fの床が白くはなくなってしまっていること。当たり前だが、人が入ってナンボの展覧会。人が結構来ました、という証拠か床のフェルトは鑑賞者の足によって汚されていた(かくゆう私も汚した一人ではあるが)。やはりハレーションを起こすくらいの白さは、白のまま保っていて欲しい。
池田はモノクロがベースの映像をプロジェクションし、大きな空間での鑑賞する。鑑賞者は大きな空間であるから視点を動かす。しかし、この鑑賞行為がモノクロ以外の余計な色を知覚させる。プロジェクターから発せられる光はRGBで構成されており、あるプロジェクションをした光を見て別のプロジェクションの光を見てしまうと残像としてRGBが見えてしまうのだ。このことは生理現象であるからどうにもならないといえば、どうにもならないのだが・・・。なんとかできなかったものか。

ミニマル、最小限の創作方法という定義は自然発生的に1960年頃に生まれてきたそうだが、色々と前述はしたが主にモノクロの映像をプロジェクションする池田はミニマルの系譜に乗っていると思って良いはずだ。その証拠にYouTube等の動画サイトの粗い画像であっても、池田の映像(ライブ映像でなく音楽に付随するプロジェクションされるであろう映像)は視覚的のも耐えうる。私はYouTubeを配信という意味でなくヴィジュアル的に味方につけた点は池田亮司の作家としてもっと評価されるべきだと考える。ミニマル、ミニマル言っておきながらではあるが、池田亮司を知っている人なら(言葉の選びは違えど)黒い画面に白い数字がぐるぐると並んでるような映像を思い浮かべることができるように、かなり抽象的とも言えるような共通認識を思わせる作品をつくるのが池田であって、とはいっても池田を知る人が思い描く映像はきちんと池田亮司の映像として在るのだろうからミニマルっていうのは定義自体はモノありきの結構曖昧なもんじゃないかとも思う。



実際のところ、池田亮司のインスタレーションだけでチケット代が1000円というのは高い。確かに現代美術館並の大きな空間は見る事はなかなか稀な機会ではあるけれど、ご自宅のPCでのYouTubeでも結構楽しめますよ?