2009年9月3日木曜日
アイ・ウェイウェイ展-何に因って?
http://www.mori.art.museum/contents/aiweiwei/index.html
特にこれといって興味があるわけでもなったが「六本木にいるので」という理由で森美術館にアイ・ウェイウェイを見に行く。
北京オリンピックのメインスタジオ”鳥の巣”をヘルツォーク&ド・ムーロンと共同デザインしたということもあって(とはいえアイ・ウェイウェイはオリンピック開幕前に中国側と決裂したとかなんとか)、メディアで多く紹介されていたし、前評判も高かったようだ。
しかし、実際見てみるとメディアで見たイメージそのままで本当にそれ以上のものがない。コンセプトに忠実といえば忠実ではあるが、本当にこれがアートやら美術やらの類いであるかどうか疑問。特に「古い概念を壊す」ということを実際に漢や清の時代の机やツボなどを着彩やら破壊するなど、ダイレクトに視覚化しすぎることは嫌悪感に近いものを感じる。
インタビュー映像を見る限りアイ・ウェイウェイ氏はニューヨークに滞在、制作しており、流暢な英語を話す「国際的な」アーティストの雰囲気を醸し出しているが、モノに対しての粗雑な扱いはモラルがイマイチな中国人と思われても仕方ない。
実に高い1500円であった。
2009年8月30日日曜日
Melody♡Cup
http://www.takaminet.com/
私は純粋に高嶺格のファンである。ファンであることを自負している。
大学を卒業して数年、アートと言うのはビジネスと結びつくことで成立する、という事柄が結構な重要なファクターだということが分かってきたという実感に逆行するかのごとく、高嶺格の作品は買う買わないというところではないフィールドに位置する稀有な作家であると思う。一般的に欲しいから買うというのは作品の購買層に限らず、普段の買物でも当たり前に思う心理である。高嶺の作品はそれとは一線を画していて、欲しいとかの所有欲ではなく、誰かに知らせたい、見せたいと思わせる。もちろん高嶺が作家として生きていくためには、何かしら鑑賞者もしくはファンとして作品を買うなど還元をすべきであるとは思うのだが、お財布事情もあって出来ること・出来ないことがあるわけで、私個人として、出来うる事をすべきなんじゃないかとは思っている。私の出来うる事、は作品を極力見に行き、私周辺に広報していくことぐらいではあるが。とても私的というか思い入れになってしまうことが多い気もするが高嶺の作品は何かしらのしこりは残してくれる力のは確かである。
実のところ、毎年伊丹で高嶺格演出の舞台が行われていることは知ってはいたのだが、見に行く機会としては今回が初めてであった。とはいえ、初見であろうが何であろうが心の準備をしたところで、結局は覆されるのが高嶺格の作品である。それが作品として本当に面白いと思うし、決められていない価値観という意味では、現代美術らしいとも言える。作品が成立しうるためのテーマ性のようなものがあるとしても、見る側の解釈の自由がかなり許容される。
今公演では日本人とタイ人が役者として出演しており、見ていても日本語ではない部分はさっぱりわからない。途中タイ人の役者にインタビューするという場面があったりするのだが、そこでのコミュニケーションツールは英語だ。英語という言語はつくづく便利な言語である。タイと日本では英語が公用語ではないにもかかわらず、‘地球で最もポピュラー‘される言語ということで、英語を以て意思疎通をするのは奇妙なことだ(このことは水村美苗の「日本語~」関連の本を最近読んだことが大きく影響しているかもしれない)。言語、というか国に関しての思考を作品化するアプローチは高嶺は何度もしているので、一見ディスコミュニケーション状態での舞台の進行であったようにも見えたが、それほどディス、の状態ではなかったのかもしれない。
ところで今公演で最も目を惹いたのは、「舞台装置」であった。以前のインスタレーションで地面にプロジェクションすることで文字を発見したかのように、新しい「仕掛け」があった。それは舞台全面に広げられた大きなブルーシートによる効果であった。高嶺はそのシートを巧みに使い、海のような、山のような大きな空間をつくりあげた。高嶺の特筆すべき作家性はテーマ性も含め、なにかしら日常を引き上げてくれるところにある。今回の舞台では日常的に建築現場などで目にするブルーシートがそれの役割にあたっていたように思える。
今まで高嶺の体験型の作品をいくつも見てはきたが、今回の”Melody♡Cup”は様々な要素が盛り込まれていた(ある意味では散漫とも言えるかもしれないが、どういった風に散漫であったかは割愛させていただく、その散漫さも要素の一つですら思えるからだ)。要素、というのはテーマ性のような概念的なものも舞台装置のような物質的なものも等価と考えたうえでの要素であり、要素があればあるほど、鑑賞者を混乱させる。私は混乱させられ、裏切られた、と思わせられるが、次回もまた期待したくなるのが高嶺の作品の楽しみ方の一つでもあるように思っている。
2009年8月10日月曜日
大友良英 without record
「i-Podの功罪は音楽を落ち運びすることのできるツールとしての大衆化(MP3プレイヤーとしてはひとり勝ち状態であることは周知の事実)とそのことによる周囲の音の遮蔽環境をつくってしまったことにある。」
大友良英はそのようなことをインタビューで述べていた。大友は多くの映画音楽やNHKの番組の曲などを制作する日本を代表する音楽家だ。その経歴からポスト武満徹、もしくは湯浅譲二、はたまた細野晴臣と言っても言い過ぎではないはずだ。そんなポジションがどうであるかは本人以外の外野(私も他ならぬ外野の一人であるのだが)が騒ぐこととしてはさておき、大友は自分自身の音楽に関わるもの、音をつくるものの今やるべきこととしての使命感のようなものが今展覧会からは感じられた。
原宿vacantでの展示”without records”は去年山口情報芸術センター(以下YCAM)で行われた”ENSEMBLES展”の延長として場所を変え、行われている。YCAMはもちろん芸術センターと名の通り、’芸術’表現をアウトプットするためにつくられた場所であって、音響環境はvacantより格段によいということは言わずもがなではある。しかし大友の求める音、聴かせる音が実現できているという意味ではvacantでの展示の方が成功しているのではなかろうかと思う。それは純粋にそこにある’音’をより意識して制作する大友の態度があるからに他ならない。
そもそもvacantは古着屋の店舗として使用されており、古着を取っ払った2Fの床は花柄のシートが半分敷き詰められた妙な空間である。その空間に100台の使い古されたターンテーブルと天井からつり下げられたフィラメントの電球が制御され、音と光を奏でるー。見た目の’きれい’さを求めた訳でなく、使い古された空間に、時間を含んだような視覚と聴覚の刺激による美しさがそこにはあった。箱(vacant)とモノ(”without records”)は時間という共通項を以てして、調和した。それはYCAMでの展示より適切な方法であったはずだ。
先のオオタファインアーツでの梅田哲也の展示でも同じようなことを感じたのだが、個人レベルでディズニーランドをつくるのであれば、このようになるに違いない。その純粋な動機からつくられる空間はシュヴァルの理想宮やワッツ•タワーとも肩を並べることさえできるのではないだろうか。また主観ではあるが、”without records”の展示は越後妻有トリエンナーレでのボルタンスキーの展示より明確で、美しかった。世界的大御所より責任感と作家の近くに作品があるように感じられたからだ。
今展示は”ENSEMBLES 09”と題された2009年の大友の仕事の一部に過ぎない。展示期間中に50歳を迎えた大友のアグレッシブルなおっさんパワーに今後も期待したい。
2009年7月27日月曜日
極並佑 個展
NODA CONTEMPORARY
http://www.nodacontemporary.com/exhibition/index.html
ジュリアン・オピーとどう違うのか、考える。
極並というのかなり珍しい名字で覚えていたのか、べたっとした面が印象的だったから覚えているのかは分からないが、極並の絵画のイメージは脳裏に残る。一般的にイメージに伴う字面(タイトルというよりはむしろ制作者名)を覚えているというのは私だけではないはずで、イメージとそのイメージを自身の中で言葉で説明するタグのようなものがあるとしたら、極並という名前と彼の描く絵画はそれにあたるように思う。
実際に極並のイメージを思い出せる(思い出すではなく、思い出せる、と表現したい)理由を浅はかであると言われるのを承知で言うのであれば、ジュリアン・オピーに引っ張られるような印象を受けるからだ。その浅はかもしれないという可能性の責任をとるべく、自分なりに極並とオピーはどう違うのか考えたい。
オピーのイメージ体験が私にとって強烈なのは、10代の終わりにブラーのベストアルバムのジャケットで出会っているからなんではないかと推測される。音楽への造詣は深くはないにしろ、それなりに音楽を聴いていれば90年代グランジやらブリットポップやら聴いていたのは当然の流れだったのかもしれない。ブラーは言わずもがなブリットポップの中心でオアシスと双璧を成していたわけだが、個人的には見た目が男前で中流階級的のブラーの方が労働階級でひねくれたオアシスよりかっこ良かったという理由からブラー派だった(もちろんsong2などのキャッチーな曲を嗜好した上でのブラー派ですが)こともあり、ブラーのベストアルバムを買うのも自然な成り行きではあった。イギリスではスターであったブラーがベストアルバムのアートワークに選んだのがオピーで、メンバーのポートレートをかなり大胆に削り落としたイメージを作り上げた。だらだらっとオピーの出会いを書いてしまったが、最後に書いた大胆に削り落としたイメージ、というのいうのは結構なインパクトで、顔のニュアンスがすべて簡略化された世界的なミュージシャンは’blur'のビジュアルイメージとしてではなくオピーの作品として昇華(消化?)されていったようにも思われる。と同時にブラーのイメージ戦略の間口の広さとして考えうることもできる。
顔、というのはヒトを形成・イメージするためには重要なもので、子供が「パパの絵を描いて」という父親のリクエストにきちんと目、鼻、口を判別できるような状態で描くことができるほど、人間には顔へのイメージ、出力が無意識に備わっている(顔のパーツがそもそも簡略化しやすいとも言える)。一方で見る側も「奈良美智の絵みたいにさ~」と言われれば、同じようにその顔の感じをイメージできる。
極並の絵はそういったイメージできる顔がでてこない。顔と言ってよいか、顔に含めるべきかどうか、というような一般的に顔として認識している概念のキワに近いようなものを描いている。要は顔としてのパーツ部分を描かずして描いているのだ。極並はポートレートという位置づけで考え、描いているであろうと考えられはするが、直球のその人そのものを描かない構図なのだ。それは肩越しであり、その後ろには階段があり、ポストがあり、もしくは何もない。極並は人そのものを描く訳でなく、その人の背景だとか雰囲気だとかをべったりとしたマチエリで描く。極並はオピーの絵画の一枚一枚の間にある、個人個人の関係性を描いているかのようである。
人は自分自身で認識する主観的な自分のイメージと他者から見た自分を見た客観的なイメージの両方を以てして存在している。オピーと極並の描く絵画は他人のポートレートであるから、後者に相当する。しかし同じようなべったりとした表面性を用いて、同じように他人を対象として描いては描いている二人は同じようには他人が見えていないことは確かであるようだ。
